序章


 薄い硝子のむこうには、海が拡がっていた。それが海であるか、海ではないのか、正直なところ分からない。ただ一面青かった。青かったのだ。深い、深い、深い────深海のような青だった。けれどここにはもう、海はない。
 まだ所々細い白煙が糸のように天へと昇る瓦礫の中、朽ちたビル群の中を歩き続ける。まるで、広い地球上にたった一人取り残された心地がした。

 誰の為の戦争だ。何の為の死だ。一体何に問えばいい。

「ああ、ちくしょう」
 突然粗野な声を上げた男が、苛立ったように瓦礫を蹴り飛ばしている。低い陽光が齎す夥しい光を背中で受け止め、男は幾度も舌打ちを放っている。明らかに不機嫌ながら、狙いを定めた長い脚で何かを探すかのように一点の周囲を執拗に蹴り上げていた。
「無理だろう。諦めろよ」
 男は驚愕したように振り返り、しかし直ぐに視線を戻した。ポケットに突っ込んだ手が、ぐしゃぐしゃの煙草を取り出す。薄い唇に咥え燐寸を擦ると、頭薬が燃える匂いが辺りの埃を焼き払い鼻腔の先に躍り出た。三度、深く煙を吸い込んで、男は火を付けたばかりの煙草を瓦礫へと放り投げる。一瞬、二人は黙り込んでその煙の行方を眺めた。弱い風に微かに翻弄されながら、紫煙が心許なく天へ昇ってゆく。
「嫌煙者だぞ」
「良いだろうが、やらないよりは」
 ふたりはそれきり煙草を見詰めた。赤々とした火種がゆっくりと黄色いフィルターに向かい進んでゆく。白い紙が灰色に変わってゆく様を眺めながら、どちらともなく息を詰めた。

 ふと風が通り過ぎた。一瞬辺りを見回した男は、視線を向ける事なく静かに問い掛ける。
「どうする」
 太陽が沈んでゆく。翳る世界の中、何もかもが遠のいてゆく。
「海が、見たい────」

 コンクリートの壁の向こうには、きっとまだ海がある。白い砂浜には何が打ち上げられている。空き缶か、流木か、それとも────。