第一章 狂犬帰還す
日本海から少しばかり内陸に入り込んだ位置にあるG04地区の山の中腹。高い木々に囲まれ、元はそれなりの屋敷であったろう二階建ての洋館は蔓草に侵され朽ちかけている。未だ人の住まいとはとても思うまい。お陰で最近より激しさを増した内戦の為に絶えず上空を旋回している政府軍の無人偵察機からも上手く隠されている。
遥か主要都市に近いB53地区では政府軍と反政府組織の衝突が続いている中、苔生した屋敷の庭先では相反した何処か屈託のない時が流れていた。
「仁科さん、見てくださいこれ」
澄み渡った秋口の空を見上げていた仁科は満月に似た艶やかな丸に浮いたしたり顔を見下ろし、ゆっくりと肺で遊ばせた煙を吐いた。
「水力発電の要領で作った自動発電機です。二十四時間稼働できます。少し離れたところに小さな滝があるでしょう。あそこに置いて、ここまで引くと。風力はここでは風が弱すぎますからね。まあ頂上でって手もありますが、偵察機に見付かる可能性もありますし────」
だらだらと続く能弁が終わる前に、仁科は長い脚を大袈裟に振りかぶり、鉄板を底に仕込んだブーツのかかとで木製の小さな模型を踏み潰した。
「あああっ!」
情けない悲鳴を上げる青年を、目尻の切れ上がった鋭い瞳で相変わらず気怠げに見下ろしながら、仁科は口元に挟み込んでいた煙草を指先に持ち替えゆったりと白い息を吐いた。
「三田おまえ、また太ったな。このチャリンコ発電は鍛錬の意味もあるって言ったろう。水場が遠いから水路を引こうとか、薪運ぶのが手間だからソリを作ろうとか、何かとサボろうとするからそんなたるんだ体型になるんだろうが」
バラバラになった模型を搔き集める三田は、仁科の言う通りフォルムが極めて丸に近く、とてもではないが俊敏な動きが出来るとは到底思えない。けれど強烈なかかと落としで粉砕された木片を抱え、三田は恨みがましく唇を尖らせる。
「鍛錬はしますよ、鍛錬は。鍛錬と言われればしますよ」
「このチャリ漕ぐ代わりに、水バケツ運ぶ代わりに、毎日山頂から麓まで往復三周だぞ。いいのか」
「ええ、それは……」
ライフラインのないこの山奥のアジトで、自転車を漕いで発電する事はとても重要な日々の作業だ。同時に、それが兵達の鍛錬にもなっている。休憩を含め、一組三時間を三組。日の出から日没までの間に二台の自転車を漕ぐ。仁科にとっては一石二鳥だが、若い兵達には射撃訓練や、あからさまに実践を意識したものがウケる。三田もまた今自転車を漕いでいなくてはいけない筈が、原始的な発電方式が気に食わないのか、いまいちこれを鍛錬とは思えないのか、何時ものようにサボっていると言うわけだ。
あからさまに嫌な顔を浮かべる三田の脚を包む豊満な肉に仁科は容赦なく蹴り入れた。
「あいたっ!」
肉厚な掌に握られていた木片が散り散りに飛び、三田は抗う術なく崩折れる。腰を屈め最早泣き出しそうな瞳を覗き込みながら、仁科はフィルター際まで燃えた煙草を模型の残骸に押し付けた。
「ほら。足腰が弱え」
そんな二人の背後、二台並べられた自転車に跨り額に汗の珠を浮かべながら、まだ年若い兵、吉村は軽く笑っていた。
「仁科さんの蹴りで立っていられるのって、海堂さんくらいですよ」
海堂────その名に、仁科はふとまた空を仰いだ。
「おっせえなあ、チビ」
「千里ちゃんも毎日街を見下ろしては溜息を吐いているし、仁科さんも俺に理不尽な暴力を振るうくらい落ち着かないし、海堂さんは本当罪な男ですね」
「誰が理不尽だ、誰が。そんな無駄口叩く暇あんならその風船みてえな腹引っ込ませる為に死ぬ気でチャリを漕げ」
膨らんだ頬を平手で軽く叩き、仁科はゆっくりと重い腰を上げる。
「電力も溜まる、三田も痩せる、いい事尽くしだなあ」
嫌味ったらしい言い方に、三田の頬はより丸々と膨らんだ。
「俺はメカニック担当ですから」
「ほう、メカニック担当ねえ。だったら銃のメンテは俺より早くならなくちゃなあ」
返す言葉もないのか、観念したのか。三田は遂に不貞腐れて自転車のサドルを跨ぎ、それきり無駄口を噤み自転車を漕いだ。
ここG04地区に新たな部隊を作る事となり、その地区リーダーに当時まだ二十五歳だった仁科が大抜擢されたのは二年前の事だ。この隊は仁科を筆頭に、下は十七歳から一番年上が仁科で、実戦経験のあるものは少なくかなり若い編成となっている。人員も兵が七人に炊事と医療担当が一人と極めて少ない理由は、戦火から遠いからと言う面もあるのだろう。
当時まだ一般市民として道端で下手な歌を歌っていた三田をこの若い隊に引き込んだ理由は、彼が政府に対し並々ならぬ怒りを覚えていたからだ。だがここ最近こうしてこのアジトでの生活をより良いものにしようと画策している。時折この僻地を思い出したかのように政府軍が訪れる程度の、表面上極めて平穏な日々が続くこの何処か間の抜けた空気が齎した弊害か、それとも三田の心に燃え盛っていた怒りの炎が鎮火してしまったからか。
「でも本当、海堂さん遅いですねえ。何もないと良いですが」
物思いにふけろうかとする背中を引き戻すかのように、吉村は荒い息を吐きながらも呟いた。
自身が最も信頼を寄せ、かつこの隊で仁科の他に唯一実戦経験のある海堂を定期的な司令部との連絡係として街に下ろす事は珍しくはない。電波を使う伝達方法は簡単に政府に傍受されてしまう為、この方法が組織的な意味合いで言えば最も危険が少ないのだ。そんな中で幾ら僻地とは言え時折政府軍に踏み荒らされる事のある街に下りるリスクを最も減らす為の人選はやはり、若いこの隊では海堂しかいないのだ。しかし本来ならば昨日帰って来る予定だったにも関わらず、未だその姿は確認出来てはいない。
「片腕もげても生きて帰って来いって言っておいたから、まあそのうち帰ってくるだろ」
心配がない訳ではないが、あの男がそう易々と死ぬわけがない。仁科はまるで自らに言い聞かせるようにそう言うと、新たな煙草に火を点ける。
「そうですね。海堂さんが仁科さんの命令守らないわけないですよね。なにせ海堂さんは仁科さんの忠犬ですからね」
洗練された横顔を睨み付け、はやくもふうふうと苦しげな息を吐きながら、三田は何処か嘲笑を含ませて吐き捨てた。
「おまえ、ブチ殺されるぞ」
海堂本人がそれを聞いたなら、間違いなく三田の命はない。
「あいつ俺みたいに良識も慈悲もないからなあ。ノーモーションだぞ」
「いやいや、仁科さんもでしょ」
「それはおまえ、ちゃんと訓練しないからだろうが。見ろ、この蹴りますよ、って感じ。な、吉村」
愛想笑いを浮かべながらも、まだ十九歳と一際若い吉村は不安を隠す事なく呟いた。
「でも本当、何もないと良いですが」
そうだなあ、と小さく返し、仁科はまた空を見上げた。
空は青く、けれど余りにも澄み切っている。それは焦がれる色彩とは真逆であり、それが余計に胸を重くした気がした。
次の日、陽が昇りきっても海堂が戻る事はなく、代わりに待ってもいない人物が庭先で座り込んでいた。
「婆ちゃんここ来ちゃダメだって言ったでしょう」
仁科は薪に腰掛け荒い息を整える老婆の前に屈み込み、そう言いつつ清流から汲んだ水を一杯差し出した。
この老婆、このアジトから少し下った辺りに昔から住んでいる人物で、ボケているのか、単に聞く気がないのか、幾ら注意しても週に二、三度はここを訪れる。一応にも潜んでいる手前、こうして一般市民が頻繁に訪れる事はあまり良いとは言えない。
「ここ来てもこんな水くらいしかあげられないから。なに、自転車漕ぐ?」
老婆はまだ息が整わない様子で、それでも必死で首を振る。
「野菜は有難いんだけどね、俺たち一応ここに隠れているわけよ。誰かに聞かれても喋っちゃダメだよ」
か細い溜息を吐き、嗄れた顔は不愉快そうに歪んだ。
「英雄さんを売るなんて、見くびらないで欲しいねえ」
英雄ね、と仁科が喉の奥で吐き捨てた時、水汲みから戻った吉村が小走りに駆け寄った。
「仁科さん、海堂さんが戻られました」
「そうか、今行く」
待ち侘びたその知らせに、仁科は思うより胸が弾んだ心地がした。
「婆ちゃん慌てなくていいけど、ちゃんと帰るんだよ」
相変わらず腰の重い老婆にそう言うと、仁科は海堂の待つ部屋へ向かおうと腰を上げた。
ふと視線が止まる。少し離れた庭先で兵達の洗濯物を干すひとりの女がじっとこちらを見詰めていた。肩口で切り落とした髪が、儚げに揺れている。責めているような、打ち拉がれているような。そう感じるのは、仁科の深層に罪悪感が根付いているからだろうか。
「千里さんには俺が」
吉村の声に我に帰り、仁科は返事も曖昧に庭を後にした。
屋敷へと入り直ぐ右手の部屋は作戦会議をする為のものだが、この僻地ではそれと言った大きな作戦もなく、全体では週に二、三度定期報告で使う程度。多くは海堂と仁科が内密の話をする為に使っている。机が数個雑然と並んでいて、日の目を見ない古いプロジェクターと地図が拡げられるだけのテーブルがある他は、とにかく飾り気がない。割れた窓ガラスも修繕出来ておらず、まるで廃墟だ。
その部屋で、何時も通り海堂は行儀悪く咥え煙草で机に腰掛けキツく縛った靴紐を緩めていた。
「おう、おかえりチビ。疲れたか」
海堂は、チビと呼ぶには無理のある高身長。腰の位置がやけに高く、腕も長い。身長は勝っている仁科だが、それにしても海堂はバランス的に見れば仁科よりもずっと日本人離れした恵まれた体躯を持っている。
仁科は返事もせず相変わらず靴紐と格闘する海堂の均整の取れた全体像を舐めるように眺めた。
「腕はあるな」
「あ?」
粗野な声を上げ、きついつり目が長い前髪越しに仁科を睨み付ける。濡れたように黒々とした髪には異質に感じる混み入った瑠璃色の虹彩は鈍く淀みながらも光を放ち続けているようで、まるで獰猛な獣のそれだ。ふと笑みが溢れそうになり、仁科は取り繕うように海堂の目の前の机に腰掛け煙草を咥えた。
「火くれよ」
緩め切らない靴紐から気怠げに手を離し、海堂はポケットを弄る。
「ああ、いい。燐寸なんか勿体ねえ」
一瞬不機嫌に眉を顰め、それでも海堂は唇に挟んだ煙草を仁科の口元に向けた。先端が触れ、火種が一層赤々と光り微かに陰る尖った鼻梁を染める。仁科も深く息を吸い込み、ゆっくりと顔を離した。こうして仁科を許容するまで手懐けるのには随分と苦労した。
かつてを思い思わず小さく笑うと、それが気に食わなかったのか。海堂は軍用ブーツを放り、仁科の組んだ脚に男にしても大きな足を投げ出した。
「おい、臭え足向けんな」
思わず態とらしく鼻をつまんではみたが、あの男の嫌な靴の匂いは全くその足からは漂っては来ない。不思議に思い恐る恐る鼻先を近付け息を吸い込んでも、やはり同じだ。
「臭くねえな。三田なんか、牛乳拭いた雑巾二週間真夏に放置したみてえな臭いするぞ」
海堂はふんと鼻で笑い飛ばすと、不躾な足を下ろし放った靴底から何やらちいさな葉を取り出した。
「これが消臭に良いんだそうで」
「千里か」
「ん、ああ、そう、まあ」
突然歯切れ悪く答えると、海堂は不機嫌そうに俯いた。その尖り切った表情を眺めながら、仁科は煙を深く肺の奥底へと吸い込む。少し、痩せたか。元々食べなければすぐに痩せる体質だからか、たった一週間ここを離れただけで頰がこけた気がした。しかし目付きは必要以上に鋭いが、余りにも整い過ぎた美貌は相変わらず感心する程だ。
ねっとりとした観察を終え、紫煙をゆっくりと吐き出してから、仁科は唐突に問い掛けた。
「どうだった」
その言葉に、海堂は漸く仁科が目上の相手だと思い出したらしい。煙草を指先に持ち替えると、神妙な顔で仁科の黒々とした瞳を見詰め返した。
「街の様子は特には。最近G04地区に関して言えば攻撃も無かったですから、少しづつ人が道を歩き始めていました。ただ定期報告予定日を三日過ぎても音沙汰がなく司令部とは会えず仕舞いです。そろそろ政府軍がここのことを思い出す頃合いだから、臆病風に吹かれたか、途中でやられたか」
「そうか」
「物資も遅れがちですし、主要都市の衝突が過激化しているからだと思いますが」
海堂の言う通り、最近は本部からの食料や弾薬、銃など定期物資の輸送に遅れが出ているのだ。この近くは海が近い為か国道が完全に封鎖され、密輸自体難しくなっている事は事実だが、それにしても先月はひとつも届かなかった。そもそも実弾訓練以外に使う機会がないから武器系統は良いにしても、食料は今や自家栽培のみで賄っている状態。正直楽ではない。けれどそれより何よりも、仁科は忘れ去られている気がしてならなかった。
顎先に手を当て深い思考に潜ろうかとする仁科を引き戻すように、海堂は低い声を落とし、ぐっと仁科に身を寄せた。
「それより、妙な噂を聞いたんです」
海堂の野生的な眼光の鋭さやその顔立ちの精緻な様は間近で見るにはどうにも居心地が悪く、悟られぬよう微かに身を引きながら仁科は半分残った煙草を床に落とし踏み付けた。
「噂の事は今晩聞く。それより早く千里に会ってやれよ」
あからさまに眉間に皺がより、海堂の苛立ちが肩口から煙となって立ち昇るような心地さえした。分かってはいるが、やはり海堂の帰りを待ち詫びている恋人に早くその顔を見せて安心させてやった方がいいだろう。仁科はそう思っていた。
相変わらず苛立ちながらも身体を離した海堂を視線で追いながら、仁科はふと眉を顰めた。何故か、その瞳の鈍い輝きに引っ掛かるものがあった。そんな筈はないと思いつつも、出逢いからもう六年近く海堂を一番近く見てきた。この勘が外れているとは思えない。
「チビ、おまえ────」
仁科が意を決して問おうとした時、部屋の扉が控え目に叩かれ、ひとりの兵が顔を覗かせた。
「仁科さん、斥候出てきます」
ライフルを肩に、その辺を見回るだけなのに意気込んでいるのか細い眉が吊り上っている。刈り込んだ頭がその童顔をより幼く見せ、どうにも不恰好だ。
「おい橋野、ついでに婆ちゃん送ってってやれ。どうせまだいるんだろう」
橋野は神妙な顔付きのままはっきりとした返事を返し、大袈裟に頭を下げて部屋を出て行った。
「ほらおまえも、早く顔見せてやんな」
仁科がそう促すと、海堂はこちらもまた大袈裟なくらい乱暴に立ち上がり、椅子を蹴り飛ばして部屋を後にした。
苛立つ背中を見送り、煙草を取り出す。オリーブ色のジャケットの胸ポケットから取り出したライターで、仁科は先端に火を灯した。