第二章 兵長室の夜
次の日、何時も通り朝日と共に目覚めた仁科は、まだ眠る頭を起こす為に庭先に出ていた。肩口まで伸びた怠惰な黒髪を掻き上げ、日課のストレッチがてら澄んだ冷たい空気を肺いっぱいに満たしてゆく。朝露に濡れた木々の匂いは心地が良い。ふと仁科はその隙間から覗く街並みに、ぽつりと呟いた。
「妙な噂ねえ」
昨日海堂は結局二度と仁科の前に姿を現さなかった。随分と疲れていたのか、部屋にこもったっきりだったようだ。
不意に屋敷の扉が軋んだ音を響かせ、仁科は視線だけを背後に流す。空のバケツを手に、千里がこちらも日課である朝の水汲みに出る所だった。炊事場の朝は早いのだ。
「おはようございます、太郎さん」
「おはよう。ご苦労さん」
控え目に微笑みその場を離れようとする背中を仁科はふと止めた。
「千里、昨日はちゃんとチビに会えたか」
一瞬大袈裟に驚いて振り返り、まだ少女から抜け切らずあどけなさを残した顔に再び遠慮がちな笑みが浮く。
「あ、はい。ありがとうございます」
千里は飛び抜けて美人と言う訳ではない。特徴のない、日本人らしい薄い顔立ちは、彼女の控えめな性格によく似合っている。ひとの心を安らげるような愛嬌があるとはいえ、黙っていればマネキン人形に近しい美貌を持つ海堂と並ぶととても似合っているとは言えないが、しかし千里の二年に及ぶ片想いの末に恋人となって二週間、よく持っていると仁科は感心していた。それは千里の辛抱強さに対してだが。
昨日一週間ぶりに見た生意気な顔を思い浮かべた時、仁科は不意にあの痩けた頰を思い出した。
「痩せたよな」
しかし千里は微かに眉を顰め、首を傾げる。
「そうですか」
「そうでもないか」
「あ、いえ、太郎さんがそう感じたなら、痩せたんだと思います」
そう言って、気の弱そうな眉が一層垂れ下がる。
「何か良くないことでもあったんですかね。司令部の方とは会えなかったみたいなのに。街も、政府軍が攻めて来た様子もなかったし」
「さあな、何も言っていなかったが」
「小太郎、機嫌が悪くて。何だろう、私がいけないのかな」
沈む瞳を眺めながら、仁科はふと微笑んだ。
「千里は悪くねえよ。あいつはほら、人間性が著しく欠如してっから。それでも好きなんだろう。そういう所も含めてさ」
幼い頬はみるみる紅潮してゆく。見てくれを除けば凶暴しか残らないような男に、何故そこまで。そうも思ったが、他人の事など幾ら考えたとて分かるはずもない。
「ありがとうございます。小太郎と恋人になる事が出来たのも、全部太郎さんのお陰です、本当に」
丁寧に頭を下げ、千里は仕込みがあるからと駆けて行った。その背中を見送り、仁科は煙草を咥えた。
たしかに、二人が恋人と言う関係になるまで御膳立てしてやったのは仁科だ。控え目な千里が海堂への恋心を募らせていたからと言う理由の他、海堂にもそう言った心の安らぎが与えられるのではないかと思ったからだ。恋人が心の安らぎとなるのかは些か謎ではあるが。
海堂の事だから、そう簡単に行くまいとは覚悟していた。けれどその予想に反し、千里と付き合えよとふざけた調子で投げた提案に二つ返事で了承したのが二週間前と言う訳だ。正直、仁科は面食らった。海堂が千里の事を特別好いていない事も知っていたし、道端の草程度の認識しかしていないだろうと思っていたからだ。若い兵たちは寝起きする部屋が同じで訓練も共にする為に、嫌い、鬱陶しい、そう言った感情は端々で見受けられる。千里に対してはそれすらも無かったのにも関わらず、何故承諾したのか。全く不思議な男だ。
「仁科さん、ランニング行きますよ」
不意に背後から掛けられた声に振り返ると、仏頂面の三田を筆頭に、若者たちが雁首揃えて立っていた。
「ん、ああ。始めるか」
そう言いながらふと辺りを見回すと、六人居るはずがそこには四人の姿しか見受けられない。
「チビと橋野は」
「海堂さんは先行ってるんじゃないですか。なんか機嫌悪かったし。橋野はまた金魚の糞です」
自分で問うた癖に、仁科はああとぞんざいに吐き捨てたっきり下ろしていた髪を慣れた調子で素早くひとつに結わえ、腕時計に視線を落とした。
「よし、じゃあ始め」
心の準備もなく開始の合図を言い渡され、慌てた兵たちが次々に獣道へと走ってゆく。シンガリはいつも仁科である。
この隊での毎日は、十キロのランニングを終えてから朝食、その後兵たちは腹ごなしの休憩を思い思いに過ごす。休憩を終えると自転車発電班と農作業班、他必要に応じて水汲みや薪割りに分かれ、大体は日没までそうして過ごす。本部では、らしい規律の中、食事すら喉を通らない程鍛錬に鍛錬を重ね結束とやらを強めたりしているのだが、そこを経た仁科にはそれが反政府組織と言う塊において何の意味を成すのか分からなかった。
その結果、G04地区リーダーを任されはしたが仁科は規律や規則で縛り付けることをしなかった。元々ここにいる若い兵たちは、海堂を除いて全員がG04地区に基地を作る事となってから集まった一般市民からの志願兵である。それぞれ抱える想いは様々だが、それ故に軍隊よろしく日々訓練に明け暮れさせる事が仁科には出来なかった。
三田にしても、最近ではその最低限すらもサボろうとしている。だが政府への怒りが鎮火してしまったのなら、それはそれで幸せな事なのかもしれない。憎しみに食い潰される人生は悲しいものだ。
いつも通りどこか気の抜けた一日を終えたその晩、仁科が風呂と言うより水浴びに近い日課から帰ると、狭い兵長室のベッドには先客が寝転んでいた。
「報告が遅いぞ、チビ」
気怠げに煙草を咥え無視を決め込む海堂の碧い瞳は、その無気力な態度とは相反し獰猛な鈍い煌めきを放ち続けている。
「昨日来るかと思っていたんだが」
ベッドの端に腰掛け、仁科は海堂の薄いくちびるに挟まれた煙草を取り上げると、自らの口に運んだ。煙を深く肺に吸い込み、いつもと違う、微かな甘味でゆっくりと満たしてゆく。けれどその一口でまだ先の長い煙草を灰皿に押し付け、その動作を無意識に追いかける美麗な顔の脇に両手をつき仁科はしろい肌に映える桜色のくちびるからゆっくりと視線を上げた。
「なあ、チビ。誰を殺したんだ」
細い眉が寄り、眉間に皺が刻まれる。
「政府軍の人間だよ。決まってんだろ。こんなクソど田舎を我が物顔で歩きやがって」
舌打ちと共に吐き捨てると、海堂の双眸はよりはげしく煌めいた。
「分かってんなら早く鎮めろ」
「もう俺に頼らず千里に頼めばいいだろう」
言い終わらないうちにジャケットの襟元を乱暴に引き寄せられ、仁科は反射的に息を呑んだ。
「それが出来ねえから来てんだろうが」
とんだ口説き文句だ。そう胸の内で溜息混じりに呟いて、仁科は海堂の引き絞られた腰を縛るベルトに手を掛ける。
「そんな調子で、昨日はよく我慢が出来たな」
「疲れたんだよ。飯食って、気付いたら朝だった」
ぞんざいな物言いとは裏腹、急くように使い込まれ荒れた指先がベルトを緩める仁科の指に絡み付く。
「焦るなよ」
皮肉に嗤う仁科を睨み付けたまま、海堂の瑪瑙が揺らぐ。懇願しているような心地がするのに、ちらちらと覗く不穏。
海堂は変わった性癖を持っている。性癖と言うのだろうか。どう言う原理からか、ひとを一人殺める度に、射精がしたくて堪らなくなるらしいのだ。それも、仁科の手でなければ無理なのだそうで、海堂によればそんな身体にしたのも仁科だと言う。その事について全く覚えはないし、千里への罪悪感の正体はそれだ。けれど、自分以外を受け入れないその身体に触れるたびに、仁科は海堂と初めて出逢った日を思い出す。あれは、長年その碧い瞳の奥底に溜め込み続けた憎悪が溢れ出した日。海堂が初めて、ひとを殺めた日だった────。
耳を劈く銃声や、鼻先を撫でた硝煙の匂い。震える痩せた背中を思い出していた時、突然鼻頭を摘まれ仁科は思わず息を詰めた。
「なに浸ってんだ。早くしろ」
一応にも目上の人間であり、尚且つ自慰の手伝いまでしてやっていると言うのに、随分な言い草だ。
「はいはい」
呆れた溜息を吐き、仁科は下着越し輪郭を確かめるように掌でやわく撫でてやる。触れただけで既に硬さを持ち始めたことに、仁科は薄く嗤った。
手懐けたと言っても未だ深層では牙を剥き出すこの猛獣が、今は急所を晒している。下着越しでは切ないのか、せがむように腰を揺らして。
このまま焦らしてやるのも面白いが、前に一度焦らし過ぎて強烈な蹴りを腹に食らった事を思い出し、仁科が下着に手を掛けた時だった。普段この時間誰も訪れない扉が叩かれたのだ。
「仁科さん、いいですか」
扉越しの三田の声に、海堂は仁科を蹴り飛ばす勢いで起き上がると緩められた部分を素早く元に戻してゆく。それを横目に、仁科もまた慌ててベッドを飛び降りた。
「待て、今行く」
扉の前で一度振り返り確認したが、海堂は既に身を整え煙草に火をつけようかとしていた。無意識に息を吸い、扉を開く。そこには何時もは間抜け面の三田が、何故か眉を顰めて立っていた。
「ちょっと来て欲しいんですが……あれ、何で海堂さん」
「用はなんだ」
一度は海堂に意識を取られた三田も、すぐさま我に帰り仁科を仰いだ。普段は下世話な三田のその反応を見ても、何かよくない事らしいと仁科は感じていた。
「いや、変な奴が来て。何でも本部から派遣されたらしいんですけど」
予想外のことに、仁科は思わず海堂を振り返った。海堂もまた驚いたのか、眉を顰めて仁科を見詰める。G04地区に兵を派遣する程今本部に余裕はないはずだ。何より衝突の少ないこの地に派遣する意味がないのだ。
「臭え」
吐き捨てるような海堂の言葉に頷きながら、確かめない事には始まらない。
「どこにいるんだ」
「こっちです」
三人は兵長室を後に、不穏を連れ階下へと向かった。
ものの一分で辿り着いた朽ちかけた屋敷のエントランスホールでは、ひとりの男の姿があった。本部で支給される、反政府軍のエンブレムが肩に縫い付けてあるジャケット。巷で簡単に手に入る軍用ブーツは、たしかに反政府軍の人間で間違いはない。細面で貧相な顔立ちながら身体はよく鍛えられている。その周りをぐるりと囲むように若い兵たちが距離を取って身構えていた。会話はないようだ。
仁科が大階段を降りながら観察を終える頃には、肩を怒らせた海堂は既に男の眼前に辿り着いていた。止める間も無く、敵意を剥き出した低い声が高い天井に反響する。
「てめえ、何の目的でこんな所まで出張ってきた。さっさと吐け」
鼻先が触れる距離まで詰め寄られ、些か急すぎる威嚇に男は目尻の垂れた胡散臭い瞳を一度見開きはしたが、すぐさまどこか下卑た笑みを浮かべた。
「あんただな、海堂小太郎は。一目で分かったよ。見惚れる程の美人だけど、凶暴過ぎて誰も手が出せないって有名だった」
「なに言ってやがる、殺すぞ」
「判断が早い」
丁度エントランスまで辿り着いた仁科のツッコミに、男は素早く視線を走らせる。そして、細い垂れ目を更に細めて微笑んだ。
「仁科太郎さん、俺はあんたに会いたくて志願したんだ」
「俺?」
「惚けないで下さいよ。仁科太郎と言えばそりゃあもう本部でも有名ですよ」
仁科は思わずほう、と小さな声を漏らした。この歳で地区リーダーを任された事から本部の大きな期待を感じてはいたが、しかしやはりこの地の惚けた平穏を前にするとそれも疑わしく感じていた頃だ。
「なに照れていやがる。馬鹿か」
海堂は相当苛立っているのか、目上の人間と言う事も、若い兵たちの目がある事も忘れ吐き捨てられた言葉に、仁科は思わず笑ってしまった。その激情は、仁科にはないものだ。疲れそうな性格だな、と胸の内で呟いて、仁科は牙を剥き出しにする海堂の肩を軽く叩いた。
「もう今日は遅いし、明日話しを聞こう。とりあえず部屋もないし、寝袋出してやれ」
当然海堂を始め周囲から非難の声は上がったが、聞く気は無かった。
G04地区に拠点を構えて二年、志願するには遅すぎる。仁科はまだ二十そこそこのその男の正体に興味があった。本当に自分に惚れ込んで来たのか、それとも他に、何か目的があるのか。飽き飽きするこの平穏が崩れ落ちゆく予感だけが、仁科の胸を満たしていた────。